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もちろん、ベーシックなことを繰り返すのではつまらない、ということもあるのかもしれません。そんなことは、普段の教会(集会)でやってればいいことで、特段学ぶ必要がない、せっかく全国から来られるのであれば、それだけの価値がある、めったに聞くことができない終末論を聞くほうがよい、というご意見も理解できなくはないですが、後藤俊夫先生の「終末を生きる神の民(21世紀ブックレット)」いのちのことば社 刊でご指摘になっておられること「」をどう考えるのか、といったあたりのことは、是非お聞かせいただきたかったなぁ、と思いました。まぁ、「再臨が近いということで、勉強やら仕事やらといった日常生活にゆがみが発生することのないように」というということを注意は一応したから、それでいい、ということかもしれませんが。
(後藤敏夫著 『改訂新版 終末を生きる神の民』 pp. 16-17) それから、先週の木曜日、2番目と4番目に語られた方に個人的に問い合わせいたしましたお返事を頂戴いたしました。まず、この方が引用先を明らかにすることなく、批判的に取り上げられた新約ギリシア語学者は、以前大阪で教鞭をとっておられたTKさんという方の本であることをご教示いただきました。その方の学識は尊敬しているが、その方の主張は納得していないので、信者に教えてほしくない、というご希望でしたので、イニシャルだけにとどめます。まぁ、過激なことが売り物の方だから、多分そうかなぁ、と思っていたのですが、やっぱりそうでした。
ローマ書13:11-14から、時とか、時代のしるし、ということを説明されましたが、時や時代を一定の期間だと説明されておりました。時・時刻・日にかんして、それがすべての一定の期間、時間のようにお話しておられましたが、その意図とは何か、とおたずねしたのですが、文脈で読んでいるということと、その根拠となった書籍の紹介だけでそれで理解してください、ということでございました。とはいえ、先行する用語をこのように解釈した結果、文脈から判断して、これらのすべての表現(時、時刻、日)を期間であると断言されたのかの根拠はお示しいただけませんでした。文脈から理解した結果であるとするばあい、その文脈のとり方を説明せずに文脈から判断した、というのは、答えになっていない答えではありましたが、これ以上の議論は双方にとってあまり意味がない、と思いますので、これ以上おたずねしないことにいたしました。
最後に、わたしの頭に浮かんだ聖句だけを記載して、私の思いを示したいと思います。
「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日(hemera)、その時(hora)がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」
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今年、東大阪で開催された大会の総合的な印象をお話していきたいと思います。おそらく、2回連続ものになると思います。
先日Superdrama TVをみていたら、Law & Order Season 19 No.14はRaptureというタイトルの番組でした。この話、お断りしておきますが、ドラマですから。ドラマはドラマなのですが、Law and Orderは結構米国で、起きていそうでぎりぎり起きてないかなぁ、起きても不思議ではないかなぁ、見たいな内容を扱うので、単にドラマだから・・・・、と言えない部分があるのですね。困ったことに。なお、このLaw and Orderは米国で知らない人がいないくらいのドラマで、セサミストリートで、パロディ(SVU版のパロディ)が流れるほど人気があります。なお、パロディ版は、これ。
Law & Order Season 19 No.14はRapture(空中携挙)のお話の中身は、今回の東大阪の学び会で会った内容とも絡むので、ここで、まず紹介したと思います。
さて、Law & Order Season 19 No.14はRapture(空中携挙)の内容は、アメリカ国内で再臨にとりつかれた人々、旧ソ連(ウズベキスタン)からユダヤ人を帰還させる運動にまつわる人々が起こした犯罪行為にまつわる事件を扱ったものであったのです。
お話としては、親ユダヤ系の極端な再臨信仰の強い(どの教派かは分からない一般的な名前にしてありましたが)キリスト者のNPOの経理担当者が、ユダヤ帰還運動を進めるにあたって詐欺行為を働くのですが、この詐欺行為をした経理担当者がなかなかの知能犯で、ウズベキスタン政府が機関にあたって、税金を求めているから、その支払いのために必要だと言って、架空経費を作り上げ、ウズベキスタン政府に納めたことにして、着服するのですね。その支援者の一人が、ウズベキスタン政府に問い合わせをし、そのからくりを見破り、会計責任者が着服した献金のうち、自分の納めた献金を返せ、ということを会計責任者に言ったため、露見を恐れた会計担当者が殺してしまう、という事件の解決をめぐるドラマだったんですね。この事件の捜査と裁判の過程の中でいろいろなことが明らかにされていきます(Law and Orderの通常版(ほかに、Criminal IntentとかSpecial Victims’ Unit, LAとかLondonというシリーズがあるらしい。London以外は見たことがあるけれども、個人的には、裁判のシーンと法廷で弁護士と検事がレトリックの限りを尽くして戦うシーンの時間が一番長い通常版が好き)。
ちょうど、このシーズンの設定がNew Yorkの検事総長の選挙(アメリカでは、検事総長はれっきとした公職なので、選挙で選ばれる)中ということもあり、裁判で帰還運動が送れるような弁論をしたり、そういう組織を訴えると、反ユダヤ的な発言やこの種の空中軽挙などがないという論調で裁判中の弁論をすると、ユダヤ社会やこの種の考えを肯定的にとらえる特定のキリスト者集団からの検事総長選挙での投票が期待できなくなり、落選するかもしれないと言い出す検事総長が、公判にならないようにDeal(司法取引)するように次席検事に圧力をかけたりと、まぁ、いろいろあるわけです。
検事局による調査の中で、裁判の場でのこの運動にかかわっているユダヤ人帰還運動を進めている組織の牧師さんが、どうも、この会計責任者が着服したうえで、殺したらしい、ということを知っているのではないか、という印象を持った男性次席検事が、この牧師さんから聞き出そうとするのです。なぜ、あなたは、帰還運動にこだわるのか、いま、この会計責任者が逮捕された疑惑で、資金の集まりが悪くなり、運動が止まっていないのか、もし、この疑惑が晴れたら、献金がまた集まるようになり、活動ができると考えているのではないか、そうしたら、再臨が近くなるのではないか、という思いを持っているのではないか、と追及します。そして、その説得に、聖書の中でも言うではないか。「カイザルものは、カイザルに返しなさい。神のものは神に返しなさい。」(マルコ12・マタイ22・ルカ20)をいんようしながら、検事局が問題にしているのは、神のことではなく、カイザル(おカネと殺人)のことであり、あなたは、それを混乱させていないか、と追及します。さらに、法廷で嘘をついてまで、再臨を近付けることが本当にあなたが願っていることなのか、と牧師さんは男性の次席検事から追及されます。
その追求の中で、女性の検事(ラテン系女性検事かな)が、この犯人を隠避しようとしていた牧師に向かって「あなたは、イスラエルへの帰還事業をすれば、 再臨が近付く、と思っているからでしているのでしょう。でも、なぜ、その時を知っていると言えるのだ?」と語りかけるシーンがありました。そして、あなたはこの本が何か分かるか、と聞くと、その牧師は、それは聖書だ。と牧師が答えます。そして、たたみかけるように牧師に対して「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(新改訳 第3版 マタイ24:35-36 原文では、確かNew International Versionだったかな)を引用し、「空中携挙がいつなのか、私も知らないし、イエスも知らないし、もちろん、あなたも知らないわよね。」といったシーンが出てきて、牧師を支えていた思いが崩れ去ったあと、女性検事が「あなたは迷った時どうするのか?」と牧師に問いかけます。
そこで、牧師に向かって手を差し出すのです。そして、その女性検事の差し伸べられた手を牧師は握り、そして、信仰心のかけらもなくて、自己顕示欲の塊のような次席検事(女性検事のボス)も、女性検事に促されて祈りのために一つになる、という姿を映した後、いきなり、裁判の場面に転換し、牧師さんが不正を働いた会計責任者が殺人した、ということを証言し、有罪になります。日本のドラマだと、ここで大抵お終い(Justice has served)なんですが、Law and Orderはそれでは終わらないことが多いのですね。やはり、この回も、そうで、法廷での裁判が終わって、殺人を犯した会計責任者が、有罪になったあと、検事局のオフィスに戻ってきて、検事総長が、有罪にできてよかった、と言った後、なんでそうなったんだ、と男性の次席検事に聞くと、いやぁ、女性検事が、聖書をことばを使って牧師を説得してくれたからだ。と答えるんですね。するとそれを受けて、女性検事が「わたしがしなければならない宿題をしただけよ。裁判に必要なら聖書も読むわ。」と検事総長と次席検事にこたえます。それを聞いた、検事総長は、ふたりに、「じゃ、私の宿題もしてもらえばよかった」と言いながら、エレベータに向かいます。そのエレベータの乗り際に、女性検事が「どんな宿題?」と主任検事に聞くと、「今夜の検事総長選挙に向けての公開討論会。そのテーマは政治と宗教」と答えてブラックアウトしていくのです。まぁ、面白い番組でした。
特に、今週、東大阪であった学び会について書いているところだったので、無茶苦茶、印象的なTVドラマといえ、非常に印象的な回でした。
なんで、学び会と直接関係ない話を長々としているか、というと、実は、殺人事件を起こしたり、横領事件が起きたりしているとは思いませんが、これと同じような精神構造に、つまり人間的な努力や、再臨を願うあまりに人間の領分を越えた、父の領分、つまりJHWHの分野に入り込んでいないか、ということを思ったからなんですね。そして、そのことにあまりに熱心になるあまり、本来の聖書理解や、素直な聖書理解をゆがめていないか、本来、それほど聖書自体が重点を持って書いていない部分をあまりに重視しすぎている傾向があるのではないか、ということです。
今回の東大阪の大会での学びの午前中の一番目の回についてのコメントで、お話になられた方は、「再臨が近いということで、勉強やら仕事やらといった日常生活にゆがみが発生する」という姿と、「再臨がすぐには来ないので、教会生活がおろそかになり信仰から離れてしまう」という姿の危険性を触れておられたことに関して、もっと、キリスト者として私が気になることは、結局、多様な解釈が成立しうる預言理解にある一定の理解のみに走ってしまい、本来もっと深く味わうことができるはずの豊かな福音、神との関係、神を知ることについての理解を深めていくことができていないのではないか、という疑念を述べました。うえでふれた、ドラマではないですが、ある理論の怖さ、というのは、その理論で見ると、何でもそんなふうに見えてしまう、ということなのです。
安藤和子先生(京都インターナショナルユニバーシティ)の書かれた本に、「ダーウィンメガネをはずしてみたら」という安藤先生の証の本がありますが、個人的に提唱したいのは、再臨論も重要ではないと言わないけれども、「再臨論というメガネを一時的にはずしてみる」くらいのことはしてみてもよいのではないか、と思うのです。J.N.Darby以来、伝統的に、私たちのキリスト者集団は、再臨が近い(Darbyは1860年代ごろ再臨があると思っていたらしいです。)こととそれに関する切迫感というのかあせりに似た感情を、ロケット燃料のようにして福音を伝えてきた部分がないとは言い切れません。すべての人がそうだと言い切るつもりはありませんが。ただ、このことは影響しましたし、現に1970年代後半から80年代前半にかけて、再臨ブームが関西を中心とした信者さんの間で急速に広がり、その結果、多くの人が神と出会ったことも確かです。それは、ある程度きちんと評価されるべきだと思いますが、それと同時に、Luceさんがコメントくださったように、それがもたらした弊害ということを考え、きちんと評価したほうがよいのではないか、というのがわたしが今回強く感じたことですし、これを学ぶことは重要ではない、とは言いませんが、初心者や高校生がいる場で、このような特定の理解しずらい再臨について学ぶ意味とはどういうことのなのか、ということは、もう少し冷静に考えたほうがいいように思うのです。 次回に続きます。
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第4回目(午後の前半の講演)のまとめをしたいと思います。
まず、この記事でお示しする記録は、あくまで、私が当日取得したノートに基づくもので、ここでは、私に聞こえてきた話、ということであり、発話者のご本人の意図とは違う可能性があることをお断りしておきます。そのことを十分お含み置きの上、お読みください。なお、いずれの話者の方には、いろいろお世話になっていることがございまして、まったく個人的な怨恨等は、ありませんし、批判的な部分があるとすれば、お考えそのものについてであり、個人攻撃のようなつもりは、まったくありません。攻撃しているとすれば、記者が不明であることについて、より深い理解に達するために、自己批判や自己攻撃しているだけです。くれぐれも誤解されませんように。 あくまで、ここでは、私に聞こえてきた話、ということであり、発話者のご本人の意図とは違う可能性があることをお断りしておきます。 ここでは、「再臨」と「終末時代の人生の歩み」というテーマでお話がされる、ということでお話を始められた、と思います。最初、ティム・ラヘイのレフト・ビハインドシリーズを説明しながら、大艱難時代(Great tribulation)についての説明を始められました。黙示録19章7節から20章2節から話を始められましたが、千年王国という時代においては、イエスが、神の王国としてイスラエルを支配し、地上がアダムとイブのころのように千年間回復し、死者もほとんどおらず、1000年間人々が生きるとされておられました。これは一つの解釈として尊重しますが、ちょっと、どうなんでしょう。私はこんな風に断言したくはないな、と思ったことだけは記載しておきます。 以下の話は、私はこんな風に断言したくはないな、と思ったことですが、私に聞こえてきた内容の概略を記載しておきます。 黙示録20:4から、イエスの再臨で、イスラエルを通して信じた人々が登場し、そして、そのときには、キリスト者は雲の中に引き上げられ(空中携挙とこの業界では言います)、これが第1の復活であると、ご説明されました。 次に第二の復活として、聖徒を受け入れ、聖徒に良くした人々が集められ、それ以外は地獄に捨てられるという話をされておられました。 さらに、黙示録20:4からは、大艱難時代の聖徒が復活し、すべての生徒が千年王国の中に入るということを説明されました。 次に、ローマ書13:11-14から、時とか、時代のしるし、ということを説明されましたが、時を一定の期間だと説明されておりました。その根拠は、記者にはわかりませんでした。この件に関しては、お話になられた方に直接ご意図をお話しされた週のうちにご質問しておりますが、1週間以上経ちますが、現在のところ、ご回答をいただいておりません。ご回答をいただき次第、その概略をご紹介したいと思います。 しるしとは、イスラエルのことであり、中東の政治的変動のお話がその証拠である、といっておられました。しかし、その根拠は語られることはなく、これは、話しての方の個人的感想なのだろうなぁ、と思いました。 イスラエルの立場が悪くなっている(以前から十分悪いと筆者は思いますが)とか、アメリカが衰退しているとか、ヨーロッパをハッキリと反イスラエルの動きに向かっている、だとかという根拠から、週末が近いのでは、という印象をお話されておられました。(個人的な感想とはいえ、ナチズムの傷を抱えるヨーロッパ全体を指して、そんなことを口にすることは、どうかなぁ、と思いました。個別と全体の区別がついていない居酒屋での議論と似ているような気がすると、私は思いました。) イスラエルが反キリストに仲立ちを求めるようになる、という表現がありました。ここでも、誰と仲立ちをするのかの対象は、語られることがなく、これらの根拠となる聖書の表現を十分ご提示いただけなかったように思います。 また、眠りから覚める時刻、ということから、夜明けのことであるとのご説明もありましたが、これは、本当に一日の始まりで、眠りから覚めなければいけない、ということをお話されておられましたが、その後、突然、東日本大震災が韓国で起きたら、キリスト者が救援活動するだろう、という趣旨のご発言をされておられました。無学な私には、そのお話と目覚めなければならないことが、どう関係するのかは、この方のお話を久しぶりにお聞きするお馬鹿な私にはわかりませんでした。 終末時代の人生の歩みとして、本音で生きて行くキリスト者、求めていく、ということをお話になられていました。本音で生きて行くキリスト者の話として、オズワルド・Jスミスのことや、本音と建前の乖離の話をしておられました。このお話を聞きながら、お話された方と、隅谷さんの『日本の信徒の「神学」』ご主張とはかなり味わいが違うなぁ、という印象を受けました。私に理解力がないだけでしょう。 本音で生きているキリスト者は顔が輝いている、と語っておられました。しかし、この種の理解は、受け手の理解の問題ではないか、印象論で議論するのは、いかがなものか、と思いましたが、これまた、記者の不明の故でしょう。また、これを読み間違うと、きらきら輝いていないように見える人は、キリストと真剣に取り組んでない、ということになると思うんですが、どうなんでしょう、と思いました。また、このような理解は、繁栄の神学の世界への入り口になるのではないか、という印象を持ちました。おそらく、その対応についてもお話があったのだと思いますが、メモには残っていなかったのは、私が聞きそびれたのでしょう。 黙示録3章14-22節から、ラオデキアの教会との関連で、われわれは神を求めいくことが重要、ということを語っておられ、周囲の反対にあうようなことが、神を求めていく、ことがよいかのような例話がされておりました。とはいえ、迫害にあうことすなわち神を求めて行くこととほぼ同等とするようなご主張と聞こえたのは、これまた、私の理解力不足の故の誤解ではないか、と思います。 ところで、証と自己満足の関係が、語られていました。しかし、お話の末尾部分が小さくなったり、突然大きな声になったりするため、お話が非常に聞き取りにくく、何が証で、何が自己満足なのかがわかりにくかったです。 その関連で、金を買え、衣を買え、という表現を下に議論を展開しておられ、信者が、そのいのちを欠けて永遠のいのちを与えようとしているイエスがいるということを忘れていないか、ということを話しておられました。もう少し説明の配列を変えるたり、あるいは他の引用(たとえば、聖書に出てくる真珠のトレーダーの話など)を追加することで、もっと重要なテーマがより深く浮かび上がらせられるのではないか、と思ったのは、私に知識がないためと発想力や理解力が乏しいゆえだと思います。 その後、カンボジアで奉仕する婦人伝道者の話があったが、完全でないものを用いる神の話がなされたようにおもいます。不完全なものを用いること、に関する聖書的な根拠が全く示されておらず、この部分を支える聖書的根拠や、前後との関係が、どのような関係にあるのかは、能力の低い私には、よくわからりませんでした。 戸の外でたたく、という議論を展開しておられましたが、イエスのない教会が増えている、という話をしていておられました。もし、私が同じことを言ったとするならば、私の視点をYHWHの視点とし、自らをYHWHとするのではないか、という印象を私が持っていることになるのでは、と思いました。このように思うのは私の信仰の不足かもしれません。単なる他者批判ではなく、きっと深いことを語っておられたのだとは思いますが、能力のない私には、真意を図ることはできませんでした。 最後に、食事をするということを神の座につく、という論理で語られていました。このお話を聞きながら、食事というのは、それこそ聖餐式につながる話であり、また、エマオの途上で出会った弟子たちともつながる話であり、もっと深く展開できるのではないか、と印象を持ちまたした。 お話になられる方は、どういう関係か、食事をする、ということに関して、インドのマハラジャのものがたりに置き換えて説明されていた。これは、本当に議論を支えるために適切な「ものがたり」だろうか、と思いました。 また、ラオディキアの教会にむけられている神の栄光と報いの大きさの、他の人はどうであれ、自分がどう仕えるのか、が重要というような話をしておられました。このような議論は、どうかなぁ、と思ったのでした。ここでのメタファーは、イエスという幹とつながる自分という枝しか見ておらず、枝と枝との関係性が存在しうる、というコミュニティとしての教会の側面にも触れていただきたかった、と思うし、この話が正しく理解されないと、信徒を(人間的な)奉仕競走に走らせることにならないか、ということを危惧しかけましたが、他の信者さんはしっかりとした見識をお持ちなので、そういうことにはならないのだろうと、反省しました。 このお話をお聞きしながら、黙示録の文字的な並びの順序が時間的な順序だという暗黙の想定をおいて黙示録を解釈しておられるのではないか、ということを感じました。この解釈法の前提は、同じ時期に起きることがないこと、それが必ず表現できること、同じ時期に発生することは、同じ節や場所にかかれてなければならないこととなり、同時並行でおきていることを明白に表現できないことばにより表現することの限界の問題を無視しておられるのではないか、という印象を持ちました。こういうこと思うのは、私が不信仰者であるが故でしょうけれども。まあ、そもそも、新約聖書にしても、旧約聖書にしても、もともと章も振られてなければ節も振られていない文章に、後世の人間が聖霊に導かれてである、ということを仮定して受容したとしても、ある意図をともなって章と節を振っている、ということを無視するのは、どうなんだろう、と思うから、不信仰者のなんだと思いました。 この午後の最後のお話を一言で言うとするならば、おもちゃ箱をひっくり返した、ということを思いました。個々にいくつか楽しそうな、そして、重要そうな素材やテーマを伺わせていただいたのですが、それが全体としてうまく整理されておらず、バラバラに切られ、それも中途半端に処理されていることや、中途半端のまま、次の話題に移っているために、一体何をご主張になりたいのか、さっぱりわからなかったのは、私の能力がないゆえでしょう。 どういう結論に向かって話をしておられるのか、理解力に書く私には、あまりわかりませんでしたので、非常に残念でした。確かに、大きな声を上げて、一生懸命お話されておられましたが、かえって、それが空回りをしていた、というのか、上滑りをしていたような印象をうけました。期待が高かっただけに残念でした。マイクを使っておられたのであれば、あそこまで、ミキサー係を悩ませるような極端な抑揚をつけたお話のされ方をしなくても、よかったのではないかなぁ、という印象を持ちました。 キリスト集会の方々には、伝統的に、ある特殊な旧約聖書の読み込み方をされる方が多いのですが、その典型的なお話をお聞かせいただいたように思います。 最近話題のN.T. WrightのPerfect Stormをメタファーにした講演(英語のみ、字幕なしhttp://vimeo.com/32210791)を聞いた後で、このお話聞いたんでねぇ、かなり残念でした。少なくとも、降誕というか、2000年前の出来事については、このあたりのような話もあったら、もっと興味深かったのに、と思いました。 次回、金曜日には、今回の学び会全体を通しての印象をお話したいと思います。 |
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第3回目(午後の前半の講演)のまとめをしたいと思います。
まず、この記事でお示しする記録は、あくまで、私が当日取得したノートに基づくもので、ここでは、私に聞こえてきた話、ということであり、発話者のご本人の意図とは違う可能性があることをお断りしておきます。そのことを十分お含み置きの上、お読みください。なお、いずれの話者の方には、いろいろお世話になっていることがございまして、まったく個人的な怨恨等は、ありませんし、批判的な部分があるとすれば、お考えそのものについてであり、個人攻撃のようなつもりは、まったくありません。攻撃しているとすれば、記者が不明であることについて、より深い理解に達するために、自己批判や自己攻撃しているだけです。くれぐれも誤解されませんように。なお、このパラグラフのように太字になっているのは、私の意見です。
ここでは、「神の国」と「新天新地」というテーマでお話がされる、ということでお話を始められました。
「御国とは何か」・「神の国にふさわしい人生」というテーマでお話になられたようにお思います。神の国の前にあるもの(漸進的 or 前身的?)な神の国として、神の支配があるところという意味では、教会はその一部という理解を述べられたと思います。1000年王国(イエスがダビデの王座につく)が神の国、その後に新天新地がある、という理解が述べられたように思います。
時代というか対象 主なプレーヤー
漸進的御国 教会
千年王国 イスラエル
新天新地 上記2集団の合体
という構造で、理解されているのかなぁ、と想像しました。
個人的には、上記のような理解について、どうかなぁ、と思う部分があります。このような神の国を分断的に理解することが適切なのだろうか、という思いが私にはあります。この部分は、見解の相違ということでとりあえず留保しています。
さらに新天新地は、すべての人々が祝福されるところである。ということで、お話になられました。黙示録21-22章は、教会のみを扱うものでない。というご理解だったと思います。
さらに、マタイ13章が、詩篇などにも見られる表現に関する特殊な形式構造(交差配列法)の一部を形成していることに言及した上で、最初の地上降臨と再臨との間の神の支配(御国)の話をしておられました。あの解説でわかる人は少ないのでは、と思いましたが、他の集会の皆さんはよく学んでおられるので、会場におられた高校生を含め、大多数の方々にとっては当然の知識なのでしょう、としておきましょう。
なぜ、御国が実現するのか、ということについて、神への渇きをあげておられました。4種類の渇きの解説から提示しようとしておられた。
その4種類とは、創造における渇き、レビ記(ヘブル書)における渇き、十字架における渇き、エペソ書における渇き、をあげておられました。
最初に、創造におけるアダムの配偶者への渇きをアダムが動物をつがいで見せられ名前をつけていくシーンの紹介から、配偶者への渇きがあったのではないか、ということを主張してされておられました。渇きがあったからこそ、「これぞ骨からの骨、肉からの肉」といったという主張だったです。
うーん、これはどうなんでしょう。と思いましたね。神が「よい」とされた創造のうちに、渇きがあったとするならば、それは、おそらくトゥーブというヘブル語で示される状態ではなかったはずなので、どうかなぁ、と思いました。また、 アダムのわき腹から、骨がとられた(そして血が流れたはずである)ということと、イエスのわき腹が刺され、そこから血が流されたということとの類似性を後に主張しておられたが、着想としては面白さがあるものの、これは、やや言いすぎかなぁ、という感じはしました。
その上で、神の人に対する高い信頼があると説明したあと、その信頼を裏切った人間の回復のためにイエスを遣わしたのは、罪のないアダムから罪なきイブ(配偶者としての教会)の姿に戻すためであった、という主張をパウロがエペソ書でしている、と主張しておられました。これも、ちょっと厳しいかなぁ、と思いました。
次にレビ記の構造を説明した上で、神とともに生きるために必要なことの単純化したモデルとして、いけにえ、大祭司、信仰というものを示していることを説明しておられた。レビ記とヘブル書の関係について触れたあと、いけにえについて(罪過のためのいけにえと全焼のいけにえ)、大祭司(アロン系大祭司・メルキゼデク系大祭司)についても説明されました。まぁ、ヘブル書とレビ記、創世記をそれなりによめば、この結論はある程度妥当性があるかなぁ、と思いました。
そのあと、ヨハネ17章3-4節や第1コリントの13章を取り上げながら、永遠のいのちの話をしていたが、神を知ること、神と一つになること、という話をしておられた。これは明らかにJ.I.PackerのKnowing God(日本語では、神について)の内容に影響を受けたものだと思われる。このあたり、参考文献なども紹介があってもよかったかなぁ、と思います。
十字架上での渇きに付いて、ヨハネの19章を引用しながら、神に捨てられた、という経験は、神の交わりが損なわれた、断絶した、という観点から説明された。これはおおむね妥当で説得的かなぁ、と思いました。
パウロは、エペソ人への手紙について、パウロが、異邦人が信仰をもつことの理解が欠かれていて、コリントにおけるわが民という表現から、神自身への信仰との問題を取り上げておられた。これは、使徒時代におけるパウロの表現を丹念に追うことで、もう少し明らかになるだろうなぁ(実は、その前の週、筆者の教会で1時間ほどかけて実施したが、本来的には、2時間以上が必要と思った)という印象を受けたました。
神の国にふさわしく生活する、ということであるが、マタイ13章から説明しようとされていたのだが、人を誘って一緒に教会に行く(種をまく)、最初からよい地に相当する人はいないので、一人ひとりに応じて人々に寄り添う(耕す)、われわれが操作できない部分があることを知った上で忍耐する(雨を待つ【この部分は言及が欠落していたので、筆者による補填】)ということを説明しておられた。
神の足台としてのセラフィムの反逆、また、サタンによって、いのちの木への道が閉じられたこと、主が漸進的(?)御国の中で、弟子の足を洗ったことから、人々に仕えていく必要がある、という話をしておられたが、イエスは見せるため(模範となるため)の行動ではなく、そもそもイエスの意図、下るためというイエスの目的にかなうものであったということを話された。おそらくこの部分は、上沼先生の「闇を住処とする私、闇を隠れ家とする神」やヘンリー・ナウエンの「傷ついたいやし人」や「ナウエンと読む福音書」などの影響があるのではないかなぁ、と思いました。
最後に時間切れとなり、あまり詳しい話がされなかったが、配布資料について、「遠山の金さん」なんかの時代劇ドラマの「ものがたり」構造との類似性から神に対する人間の認識状態の関係について触れられた。これも、どうかなぁ、と思いました。というのは、こういう直線的なモデルに潜む問題、例外の多さ、説明の荒さがあり、その副次的効果がかなり大きい、と思うからです。
最後に、ヤンキー牧師こと、水谷潔氏のブログ記事の悪魔からの卒業祝いの文章を読み上げて、終わっておられた。
ところで、一番疑問や残念に思ったのは、語り手の方が「御国にふさわしくいきる」というとき、語り手の方は、「御国」が何を指し示しているのかが明確でなかったことです。
つまり、
(A)「御国=この地上で存在している神との関係」なのか
(B)「御国=将来における千年王国」なのか、
(C)「御国=いわゆる【新天新地】」なのか
が筆者には、よくわからなかった。まぁ、筆者は、そもそも(A)も(B)も(C)もうっすらとつながっている連続体だと思っているので、あまり細かく区別する必要はさらさらないと思うのですが、あれだけ区別があるかのようにお話になられたのであれば、それぞれの場面で何を指し示しているのか、を説明しながら話さないと、聞くほうは混乱するのではないか、と思いました。実際に、この記事の記者は混乱しました。
特に、(B)や(C)の意味で、「御国」にふさわしく生きると、聞き手が理解した場合、単純化して説明されたように生きなければ、「御国」にふさわしくないものであり、「御国」を共有できないのではないか、と思い込んだり、挙句の果てに恐怖でいっぱいとなっても仕方がないかなぁ、と思った。これは、かなり残念に思ったことである。
あともう一つ残念に思ったことを述べて終わりたいとおもいます。この方は、最後の引用の部分で明確に、「小さないのちを守る方の代表の方が書かれたものの引用だ」と断ったうえで引用しておられた。これは、まず評価したいが、じゃぁ、それを読みたいと思ったときに、何を見ればいいのか、ということの参照情報はまったく提示されなかったと思う。これは、非常に残念だと思う。かくいう、この記事の記者である私もこのキリスト集会というグループで長く暮らしているので、悪気なくつい類似のことはよくやってしまうのだが、このグループでは、誰のどの本からとった、ということを明らかに明示しない悪しき伝統がある。それは、あとから、より正確に理解しようとするためにそのオリジナルに当たりたくてもあたれないということが生まれる。一過性の漫談や落語であれば、それでもいいかもしれないが、少なくとも、どうやってそれにたどり着けるか、位を示す親切心があってもよいと思う。後で、個人的に聞いてください、ということかもしれませんが、それは不親切かなぁ、と思いました。キリスト集会で全体によく見られる傾向であるが、学び会や福音集会でのお話が、漫談や落語レベルとなりやすい原因は、この辺りにあるのかもしれない、と思いました。お勉強ではないから、というご意見もあるのでしょうが、学び会とタイトルを打たれるのであれば、やはり、このあたりの配慮を今後は望みたいと思いました。そんなに論文書くみたいにぎちぎちにしなくていいので。
後ほど聞く、って言うのは、批判と取られかねない、という日本の風土があります。また、実際に後で聞いたら、批判されたと受け取る人たちもいるようなので、その辺りの親切さはあったほうがいいかなぁ、と思いました。
また、この記事の中でも、おそらく話し手が影響を受けたと思われる書籍を記載したが(本人ではないので、誤りも多数あると思われるがそれはご容赦いただきたい。)大体自分が話したり、書いたりするときも出発点となった書籍などが念頭にあったことすら忘れていることが多いので、こうなることはわからないではないが、参考にするとよい書籍、などはいくつか照会したほうが親切ではないか、と思いました。かりに、学び会での話であるとすると。
この方の普段の学びを聞いたことはないのでなんともいえないが、パワーポイントが使えない、ということを嘆いておられたので、普段は、パワーポイントの最後に参考資料や参考になる本などは紹介されておられるのであろう。なお、この記事の記者は、それをするように心がけている。それをしていない方の場合で、おかしいなぁと感じた場合には、あとで、しつこく話した方に食い下がって、聞き出そうとするので、少しうっとうしがられるのではあるが。
全体に、納得できる部分もあったが、類比による比定や、御国がどのようなものか、であるということをある程度説明なく語られるなど、個人的にはどうかなぁ、と思う部分はいくつかあった。
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今回は、第2回目(午前中の後半の講演)のまとめをしたいと思います。
まず、この記事でお示しする記録は、あくまで、私が当日取得したノートに基づくもので、ここでは、私に聞こえてきた話、ということであり、発話者のご本人の意図とは違う可能性があることをお断りしておきます。そのことを十分お含み置きの上、お読みください。なお、いずれの話者の方には、いろいろお世話になっていることがございまして、まったく個人的な怨恨等は、ありませんし、批判的な部分があるとすれば、お考えそのものについてであり、個人攻撃のようなつもりは、まったくありません。攻撃しているとすれば、記者が不明であることについて、より深い理解に達するために、自己批判や自己攻撃しているだけです。くれぐれも誤解されませんように。 なお、以下で、太字部分は、このブログを記している私の個人的感想です。 基本的にこのご講演は、再臨と空中携挙がテーマだとご主張になられた、と思います。 3つのポイントがあるとして、 神の約束(契約)としての再臨 携挙と大艱難 将来におけるイスラエルの役割と神の計画 があるとされ、講演を始められました。 再臨について、地上再臨と携挙の2回あると主張されておられましたが、その根拠は明白にお話になられなかったように思います。 さらに、旧約聖書のページ数の分量から、イスラエルが分量が多い、ということから、イスラエルの重要性というのか特殊性の議論、旧約聖書とのかかわりの中でのイスラエルのという内容をお話されました。もちろん、旧約聖書は、アブラハムとその子孫の契約としての側面が強いというのは理解できるのですが、しかし、これは近代の数量主義のもたらす問題のある根拠のあまり強くない視点の様に思えました。おそらく、私だけだと思いますが。 ヨハネ14章から空中携挙の解説をされたのですが、イエスがすることは弟子にとって最善であることだ、という趣旨のご発言がございました。その後、イエスは父の家を備えに行く、といっていることから、イエスが花婿として迎えに行く、という主張をしておられました。しかし、この接合は、非常にトリッキーだと思いました。家(oikia)の解釈をどうするか、によるのではないか、と思ったことは事実です。 住まい(topos)ができたら、迎えに来る、といっていることを行っておられました。しかし、その後の解説部分では、oikiaとtoposの理解の混乱をしておられるのではないかなぁ、と思いました。 ここでのイエスの姿は、共観福音書での裁き主なるイエスという姿とは異なる、と語っておられました。とはいえ、共感福音書の大半が裁き主の強調をしていないように私には思えるのは、私の理解が不足しているのだろうなぁ、と思いました。山上の説教は、裁き主なるキリストとしてのことばなんでしょうかねぇ。わたくしには、よくわかりませんが。 聖霊なる神の役割を触れておられました。そのお話を聞きながら、聖霊の存在は、個人的には、これも一つの形としては神の国の実現だと思うのですが、それはどうなんでしょうねぇ、という印象を持ちました。 父なる神、花婿なるキリストと花嫁なる教会という理解の対比構造にあるものとして、アブラハム・イサク・リベカの関係との類似性を指摘しておられました。しかし、アブラハムとの契約を考えると、このように持っていくのは、少し厳しいのではないか、と思いました。また、リベカに対して提供された財産を祝福と関連させて述べておられたが、財産やさまざまな豊かさ、を神の祝福と理解するならば、下手をすると、『繁栄の神学』(信者数が多ければよい、キリスト者になれば、霊的にも、経済的にも豊かになれる、という主張が強い考え方)につながりかねない課題があるように思いました。これらも私の理解が十分でないためだと思われます。 第1テサロニケ4:13-18から、第1コリントや黙示録、過ぎ越しの祭りなどの状況を踏まえ、トランペットを鳴らすことと主の再臨の状況について説明しておられたが、この比定も類似性・相似性にのみ基づくものであり、少し論理構成としては弱い、のではないか、と思いました。「あう(apantesis)」という語を出迎えると説明しておられたが、そのコンテキストで、人間側が出迎える、かのような発言をされておられました。あくまで聖書の主体が神にかんしてのことであるということを考えると、かなり厳しいと思いました。なお、もともと、この「あう(apantesis)」という語の語源は、大会戦をするために両軍が相互に近づく、といった意味を含む語であるので、両者が正面からぶつかるように近づく、という理解のほうがいいのではないか、と思いました。 ギリシア語学者の書籍を引用しながら、コメントを加えておられたが、どこまでが本人の主張で、どこからが語り手のコメントかまったくわからないような引用をされておられたのは、大変残念だと思います。大阪人は概して突込みだから・・・、とおっしゃるのかもしれませんが、これは聞き手を混乱に陥れただけ、と思います。さらに、この引用をする途中、他の方に対する哄笑・嘲弄とも判別不可能な発言が数多く見られた時間がございましたが、これは、正直、非常にまずいと思いました。多くの方は笑っておられましたが、私は、失笑の笑いだったのか、と思うほどでございましたが、どうもそうではなかったようです。その意味で、この部分については、まずもって、対論の体をなしていないのは、非常に残念であった用に思います。山本七平(1987)が日本人の伝統として、「ただ、われわれに、他人の宗教や宗教的感情を無視・嘲弄する奇妙な伝統があることは否定できない」と『一下級将校が見た帝国陸軍(文春文庫版)』のP87で書いていたが、それをまさに追体験するかのような時間が流れたので、あまりよい印象を持ち得なかったことだけは言及しようと思います。ご自分が同じことをされれば、烈火のように絶対にお怒りにはならないのだろうとは思いますし、烈火のようにお怒りになられないだけの冷静さをお持ちになられる方であることを、少なくともそれを期待いたしたい、と思うところでございます。 次にテサロニケI 5:1-9を引用し、主の日について話しておられたが、「日」を一定の期間、その根拠としてエゼキエル書を引用しておらたたが、その日は反キリストが支配する期間であり、テサロニケI 5:3で人々が平和だ、安全だ、といっている日としておられた。テサロニケI 5:9を根拠に、艱難にあわない、ということを説明されておられた。これは、どうなんでしょう、と思いました。あとのダニエル書の解説や、69週はすんだ、という解説も、その前提となる根拠がまったく提示されていないのは、問題だと思いました。個人的には、艱難後再臨説も、艱難全再臨説もいわゆる仮定、仮説でしかないと思っているからだろうと思います。ただ、その節が本当にそういっている、ということのより詳細な説明あるいは釈義を省いた形で、このように定義、あるいは断言するのは、個人的にはどうかなぁ、と思いました。私は、このような理解です、というつもりで話した、といわれたそれまでですが、お話しの口調を聞く限り、私にはそうは聞こえなかったんですけど、それは聞き手の問題だと思います。 とくに、イスラエルの債権の問題として、アブラハムへの契約のあふれとしての神への恵み、とか、アダム時代に神が「良し」とされた形で地上の具体的物理的環境が再建されるという概念のお話もありました。この部分も、その具体的根拠が明白に示されないまま、個人の感想の域を出ない、といわれかねないようなお話が、続いたように思います。また、イスラエルの再興をイスラエルが諸国の頭というか先導役となる、と受け取られかねない(事実私はそう理解していますが、聞き違いですよね。たぶん。後日送付されるはずの録音CDにて確認しますが)いうような表現がありましたが。この話を聞きながら、直前に聞いていた、N.T.Wrightの講演(このサイトでごらんいただけます。http://vimeo.com/32210791)の内容を思い出していました。英語はやや早いが聞き取りにくくはないです。 いずれにせよ、黙示録に書かれた順番がすなわち将来における時系列順序であると想定して読み解いていく、という解釈法が全体を通して貫かれていたのですが、黙示が黙示である以上、このような解釈には、危険性が潜むのではないかなぁ、と素朴に思いました。 全体的な印象として、基本的に話が拡散しがちで、きちんとした釈義の上に成り立ったご議論であるのだろうとは思いますが、私という受け取り手の問題により、個別特殊の問題の故にそのように伝わってこなかったのは、非常に残念でした。 あと、この話を聞きながら、次のブログ記事でご指摘のこととよく似ている、と思いました。 『「無教会は色々議論して結論に持っていくが集会は即結論にもっていく」と批判としてではなく、無教会と集会の特徴を端的に云った』こととして、お書きになっておられました。 今回のお話を聞きなら思ったことですが、ある結論があって、それに合致する証拠となる聖書箇所を引用しているような気がしてなりませんでした。その結果、なんとなく、論理が逆立ちしているんじゃないか、という印象を強く持ったということを正直に述べたいと思います。まぁ、この記事の筆者である私が無定見で、知識を持ちえてないだけからだろうと思います。これが一番残念に感じた理由かもしれません。 以上は、あくまで、筆者の個人の感想です。 |





